2022年09月01日11:45
9月の御朱印≫
カテゴリー │社務日誌
こんにちは。井伊谷宮です。
さて、いよいよ9月となりました。井伊谷宮の150年大祭を執り行う月ですので、9月は特別な一か月となります。
今回は9月の御朱印についてご紹介いたします。

9月の御朱印は「重陽の節句」と「例祭」です。
重陽の節句は9月9日の事で、陽の数字で一番大きな9が重なることからかつては5節句の中でも一番盛大に行われていたようです。

別名菊の節句と言います。
当宮は皇室を祀る皇室所縁の神社ですので、菊が神紋となっております。
菊は延寿の力があると古くから信じられ、「菊酒」や「菊湯」などの風習が受け継がれてきました。
こちらの御朱印は、菊に綿を被せる「菊の着綿」という宮中の習慣をイメージをしました。
これは重陽の前日に菊に綿を被せ、早朝に朝露を含んだ綿を菊より外し、菊の香りと露を含んだ綿で身体を拭えば、菊の薬効により無病になるとされた平安時代の貴族の習慣のことです。
例祭は当宮で毎年9月22日に行っている、一年で一番大きなお祭のことです。
今年は御鎮座150年ですので150年記念大祭を同時に行い、「夜詣で・ライトアップ」や各種奉納行事などにぎやかに執り行います。
3年ぶりとなる手筒花火の奉納や、御鎮座150年奉祝事業で修繕された御神輿の巡幸を記念して御朱印にしました。
提灯に150と記されており、150年の特別な御朱印ともなっています。この他ライトアップの9月21日~25日の期間は150年をお祝いする「光る御朱印」もお出し致します。

手筒花火は老若男女問わず、楽しみにされている方も多いのではないでしょうか。
御朱印では手筒の配置が変わり、神輿も描かれているので今年はより一層豪華な雰囲気の御朱印となりました。

和歌の御朱印は、菊紋が描かれています。全国で奮戦する南朝の軍勢でしたが、足利軍の狼藉により拠点となっていた奈良の吉野山が焼き払われてしまいました。
宗良親王の弟君でもある後村上天皇は危うく難を逃れられたものの、父君である後醍醐天皇が朝廷を開いてより心のよりどころとなっていた山を追われ、心細く打ちひしがれる御心を次のような歌に込めて親王様に送られました。
「たらちねの守をそふるみ吉野の 山をはいつち立ちはなるらむ」
(尊き父君がお守りになってきた吉野の山を離れ、いったいいずこに行こうというのでしょうか)
これに対し親王様はこの歌をお返しになり、後村上天皇を励まし支えられました。
「ふる郷となりにし山は出でぬれど おやのまもりは猶もあるらん」
(たとえ故郷である吉野の山をお離れになったとしても、きっと父君が守り続けてくださることでしょう)
父親だけでなく両親に対して、これは現代にも通じる普遍的な感情であるように思います。
故郷を離れて暮らす時、また故郷を離れずとも死別を経験した時、ふとした折に「両親が守ってくれている」と感じることはないでしょうか。
参拝の方とお話をしていても、そのようなことを伺うことがあります。
こうした思いには、ある程度の年になり様々な経験を積まないとたどりつけないものと思います。
だからこそこの歌を聞いた時に、胸打つものがあるのではないでしょうか。
さて、いよいよ9月となりました。井伊谷宮の150年大祭を執り行う月ですので、9月は特別な一か月となります。
今回は9月の御朱印についてご紹介いたします。
9月の御朱印は「重陽の節句」と「例祭」です。
重陽の節句は9月9日の事で、陽の数字で一番大きな9が重なることからかつては5節句の中でも一番盛大に行われていたようです。
別名菊の節句と言います。
当宮は皇室を祀る皇室所縁の神社ですので、菊が神紋となっております。
菊は延寿の力があると古くから信じられ、「菊酒」や「菊湯」などの風習が受け継がれてきました。
こちらの御朱印は、菊に綿を被せる「菊の着綿」という宮中の習慣をイメージをしました。
これは重陽の前日に菊に綿を被せ、早朝に朝露を含んだ綿を菊より外し、菊の香りと露を含んだ綿で身体を拭えば、菊の薬効により無病になるとされた平安時代の貴族の習慣のことです。
例祭は当宮で毎年9月22日に行っている、一年で一番大きなお祭のことです。
今年は御鎮座150年ですので150年記念大祭を同時に行い、「夜詣で・ライトアップ」や各種奉納行事などにぎやかに執り行います。
3年ぶりとなる手筒花火の奉納や、御鎮座150年奉祝事業で修繕された御神輿の巡幸を記念して御朱印にしました。
提灯に150と記されており、150年の特別な御朱印ともなっています。この他ライトアップの9月21日~25日の期間は150年をお祝いする「光る御朱印」もお出し致します。
手筒花火は老若男女問わず、楽しみにされている方も多いのではないでしょうか。
御朱印では手筒の配置が変わり、神輿も描かれているので今年はより一層豪華な雰囲気の御朱印となりました。
和歌の御朱印は、菊紋が描かれています。全国で奮戦する南朝の軍勢でしたが、足利軍の狼藉により拠点となっていた奈良の吉野山が焼き払われてしまいました。
宗良親王の弟君でもある後村上天皇は危うく難を逃れられたものの、父君である後醍醐天皇が朝廷を開いてより心のよりどころとなっていた山を追われ、心細く打ちひしがれる御心を次のような歌に込めて親王様に送られました。
「たらちねの守をそふるみ吉野の 山をはいつち立ちはなるらむ」
(尊き父君がお守りになってきた吉野の山を離れ、いったいいずこに行こうというのでしょうか)
これに対し親王様はこの歌をお返しになり、後村上天皇を励まし支えられました。
「ふる郷となりにし山は出でぬれど おやのまもりは猶もあるらん」
(たとえ故郷である吉野の山をお離れになったとしても、きっと父君が守り続けてくださることでしょう)
父親だけでなく両親に対して、これは現代にも通じる普遍的な感情であるように思います。
故郷を離れて暮らす時、また故郷を離れずとも死別を経験した時、ふとした折に「両親が守ってくれている」と感じることはないでしょうか。
参拝の方とお話をしていても、そのようなことを伺うことがあります。
こうした思いには、ある程度の年になり様々な経験を積まないとたどりつけないものと思います。
だからこそこの歌を聞いた時に、胸打つものがあるのではないでしょうか。