2022年08月20日16:39
明日午後3時~講演会 創建補足③≫
カテゴリー │社務日誌
こんにちは。井伊谷宮です。
明日8月21日(日)午後から、展示会「写真と書で旅する宗良親王・李花集紀行」が開始されます。
また午後3時~は展示をしてくださる廣田勇介さんに講演会をしていただきます。
廣田さんは明治神宮や湊川神社で展示会をされており、井伊谷宮での展示の次は靖国神社でも行うこととなっているそうです。
山岳写真家として私たちには気軽に行けない地を数多巡り、写真におさめ続けるという稀有な活動を通して得られた知見はとても貴重で、普段からお話しさせていただいても面白いお話をたくさん聞くことができます。
今回の講演会も興味深いお話になることと思います。ご自由にお聞きいただけますので、どうぞお越しください。

創建のお話の補足として、井伊社のこともお話しておきます。
井伊谷宮の創建に井伊家が活躍したお話を前回しましたが、その多大な功績が認められて明治8年井伊道政(みちまさ)公・高顕(たかあきら)公が祀られる井伊社がご本殿の脇に創建されています。
この道政公・高顕公は御祭神が井伊谷の地を拠点に活躍をしていた頃、お支えしたお二人です。
「直虎」よりも少し前のお話ですが、直虎においても少しだけその頃に触れられています。
井伊家に検地が入り、隠れ里を隠すお話がありましたね。今川家の家臣に隠れ里が見つかってしまった際に、ここは南朝の皇子がいた土地と伝えた所納得して帰っていきました。
ここでいう南朝の皇子というのが当宮御祭神「宗良親王」のことを指します。
人から聞いた話ですが、物語の中で南朝の皇子がおられた土地と言って納得したのは、検地に来た武士が皇室を崇拝していた人物であったからとのことです。この辺は事情を知らないと理解が難しかった場面ですね。

自身の一族が官幣中社・井伊谷宮に祀られたことを誇りに思った井伊家は、粟田口国綱が作刀した太刀を井伊谷宮に奉納します。
「太刀銘国綱※たちめいくにつな」と申しまして、こちらは現在重要文化財として東京の国立博物館にて保管をしています。
粟田口国綱(あわたぐちくにつな)は天下五剣と呼ばれる鬼丸国綱を作刀したとして、刀剣好きな方には広く知られている人物です。
今回の150年奉祝事業で井伊社の周りの垣を修繕しました。
木材の高騰が続く中大変でしたが、無事予定通り修繕を行うことができました。

史料館も奉祝事業でこの度建て直していますが、この史料館の位置にはかつて神饌所(しんせんじょ)がありました。
明治14年の境内絵図をご覧いただくとお分かりになるかと思います。(写真だと見づらくて申し訳ないです。)
こちらで神饌(しんせん)という神様へのお供え物を準備して回廊を渡って運んでいました。

昔は水道もありませんから地下水を使っていたわけで、この神饌所には井戸がありました。
この井戸が仮埋めされていたのですが、奉祝事業で発掘し危なくないように砂で仮埋めして展示をしています。
発掘の際確認してみた所、水がまだ少したまっていたようで一同驚きました。

絵図のころはまだありませんでしたが、後に桜の木が多く植えられ境内には桜の木が山ほどあったそうです。
今では寿命や他の木が大きくなった影響で、段々少なくなってきています。
境内に所々残っている桜は、その頃の名残です。
こうしてかつての記録を振り返ってみると、長い年月で神社の形も変わっていっているのが分かります。
ほんの30年前は現在の授与所も祈祷控殿もなかったわけで、その頃の話を聞くとここまで整備できたことを感慨深く感じます。
明日8月21日(日)午後から、展示会「写真と書で旅する宗良親王・李花集紀行」が開始されます。
また午後3時~は展示をしてくださる廣田勇介さんに講演会をしていただきます。
廣田さんは明治神宮や湊川神社で展示会をされており、井伊谷宮での展示の次は靖国神社でも行うこととなっているそうです。
山岳写真家として私たちには気軽に行けない地を数多巡り、写真におさめ続けるという稀有な活動を通して得られた知見はとても貴重で、普段からお話しさせていただいても面白いお話をたくさん聞くことができます。
今回の講演会も興味深いお話になることと思います。ご自由にお聞きいただけますので、どうぞお越しください。
創建のお話の補足として、井伊社のこともお話しておきます。
井伊谷宮の創建に井伊家が活躍したお話を前回しましたが、その多大な功績が認められて明治8年井伊道政(みちまさ)公・高顕(たかあきら)公が祀られる井伊社がご本殿の脇に創建されています。
この道政公・高顕公は御祭神が井伊谷の地を拠点に活躍をしていた頃、お支えしたお二人です。
「直虎」よりも少し前のお話ですが、直虎においても少しだけその頃に触れられています。
井伊家に検地が入り、隠れ里を隠すお話がありましたね。今川家の家臣に隠れ里が見つかってしまった際に、ここは南朝の皇子がいた土地と伝えた所納得して帰っていきました。
ここでいう南朝の皇子というのが当宮御祭神「宗良親王」のことを指します。
人から聞いた話ですが、物語の中で南朝の皇子がおられた土地と言って納得したのは、検地に来た武士が皇室を崇拝していた人物であったからとのことです。この辺は事情を知らないと理解が難しかった場面ですね。

自身の一族が官幣中社・井伊谷宮に祀られたことを誇りに思った井伊家は、粟田口国綱が作刀した太刀を井伊谷宮に奉納します。
「太刀銘国綱※たちめいくにつな」と申しまして、こちらは現在重要文化財として東京の国立博物館にて保管をしています。
粟田口国綱(あわたぐちくにつな)は天下五剣と呼ばれる鬼丸国綱を作刀したとして、刀剣好きな方には広く知られている人物です。
今回の150年奉祝事業で井伊社の周りの垣を修繕しました。
木材の高騰が続く中大変でしたが、無事予定通り修繕を行うことができました。
史料館も奉祝事業でこの度建て直していますが、この史料館の位置にはかつて神饌所(しんせんじょ)がありました。
明治14年の境内絵図をご覧いただくとお分かりになるかと思います。(写真だと見づらくて申し訳ないです。)
こちらで神饌(しんせん)という神様へのお供え物を準備して回廊を渡って運んでいました。
昔は水道もありませんから地下水を使っていたわけで、この神饌所には井戸がありました。
この井戸が仮埋めされていたのですが、奉祝事業で発掘し危なくないように砂で仮埋めして展示をしています。
発掘の際確認してみた所、水がまだ少したまっていたようで一同驚きました。
絵図のころはまだありませんでしたが、後に桜の木が多く植えられ境内には桜の木が山ほどあったそうです。
今では寿命や他の木が大きくなった影響で、段々少なくなってきています。
境内に所々残っている桜は、その頃の名残です。
こうしてかつての記録を振り返ってみると、長い年月で神社の形も変わっていっているのが分かります。
ほんの30年前は現在の授与所も祈祷控殿もなかったわけで、その頃の話を聞くとここまで整備できたことを感慨深く感じます。