2022年08月17日11:44
井伊谷宮の創建②≫
こんにちは。井伊谷宮です。
9月23日に行う稚児行列・神輿巡幸ですが、定員に達しましたので募集を終了いたしました。
たくさんのお申込みをいただき、感謝申し上げます。

今回は前々回お伝えした、井伊谷宮の創建物語②をお送りいたします。
前回の記事は過去の記事かカテゴリ「井伊谷宮の創建」からご覧ください。
さて、前回は日本全国に南朝方の人物を祀る神社が創建されたというお話まで致しました。
井伊谷宮においては「直虎」でも描かれた井伊直政の活躍から彦根に移っていた井伊家が、費用を工面して創建がなされました。
明治天皇の勅命をもって神社を作ることとなったのですが、当時の明治政府は駆け出しのころでお金がありませんでした。なので御祭神に所縁のある人物に任せた形になります。

井伊家は古くから尊王の精神が篤く、御祭神が井伊谷の地を拠点に活躍されていた際に一心にお支えした一族です。井伊家の姫君「駿河姫※するがひめ」が御祭神の妻となるなど、深い御縁をいただいています。当宮の御朱印帳や縁結び絵馬にも描かれているので、見たことあるなという方もおられるかもしれませんね。
明治5年(1872)2月12日井伊谷宮は御鎮座となったと伝わります。本年令和4年(2022)をもって御鎮座より150年を迎えました。
当初は新しい御宮ということで新宮(しんみや)と呼ばれ、駐車場入り口付近にあるぎょうざ屋「新宮」の名前の由来ともなっています。150年経った今となっては、もう「新宮」と呼ばれることも無くなりました。

社寺仏閣においては150年というのは歴史が浅いように感じる方がおられるかもしれませんが、こうした歴史的背景があり後の世で再評価され創建された神社であることを知っていただければ幸いです。
今では神社が新たにできることはあまりないですが、明治神宮然り、明治・大正の時代には機運の高まりによって大きな神社が創建されています。
宗良親王は皇族ですから、井伊谷宮は当時としても大変格式の高い神社として格別の崇敬がなされてきました。
当時の社格で、国から幣帛料が出る神社には官幣大社、官幣中社、官幣小社という枠組みがありました。
天皇陛下(後醍醐天皇を祀る吉野神宮)は官幣大社、その皇子は官幣中社ということで、井伊谷宮は官幣中社に列せられましたがこれは大変なことでした。
当初は県内でも三島大社に次ぐ県内二番目であり、後に富士浅間大社が官幣大社となってからも県内で三番目の格式の神社として厚い崇敬がなされてきた神社です。
昭和5年には昭和天皇が当宮を行幸され、昭和58年には平成の上皇上皇后両陛下が皇太子妃時代に御参拝をされています。
史料館にはかつての伊勢神宮の神宝も展示されています。20年ごとの式年遷宮で神宝の入れ替えを行う際に、前に使っていたものを下賜されました。
皇族を祀る神社として格別の崇敬を集めていた神社でありましたが、地域の方からは「尊すぎて近づいてはいけない神社」という印象があったようで、戦後神社が国と離れてからは護持していくことは大変であったと聞いております。

戦後の神社はどこのお宮さんもかなりの苦労をしていることと思いますが、当宮は特に大変な状況だったようです。先代の頃から組織を再編成し、地域の方々の御力をいただき、長い年月をかけて少しずつ少しずつ復興することができたのはひとえに皆様のおかげと感謝申し上げます。
地元を離れ昔の井伊谷宮しか知らない方が、久しぶりにお参りされて驚かれることもよくあります。
史料館が出来て、また少し雰囲気が変わったかもしれませんね。
これからの井伊谷宮についてですが、今は時代の変化がとても早い時代です。
変わらず守っていくものもありながら、社会の変化に応じて社寺仏閣も変わっていかなければいけない部分もあります。
その見極めを常に自問自答して、次代に神社を残していけるよう地域の皆様と共に懸命に励んでいく所存です。
かなり固いまじめなお話となってしまいましたが、御鎮座150年を契機にこうしたお話ができてうれしく思います。
まだまだ境内も修繕をしないといけない場所がたくさんあるものの、段々とよくなっていく井伊谷宮をこれからもどうぞよろしくお願い致します。
9月23日に行う稚児行列・神輿巡幸ですが、定員に達しましたので募集を終了いたしました。
たくさんのお申込みをいただき、感謝申し上げます。
今回は前々回お伝えした、井伊谷宮の創建物語②をお送りいたします。
前回の記事は過去の記事かカテゴリ「井伊谷宮の創建」からご覧ください。
さて、前回は日本全国に南朝方の人物を祀る神社が創建されたというお話まで致しました。
井伊谷宮においては「直虎」でも描かれた井伊直政の活躍から彦根に移っていた井伊家が、費用を工面して創建がなされました。
明治天皇の勅命をもって神社を作ることとなったのですが、当時の明治政府は駆け出しのころでお金がありませんでした。なので御祭神に所縁のある人物に任せた形になります。
井伊家は古くから尊王の精神が篤く、御祭神が井伊谷の地を拠点に活躍されていた際に一心にお支えした一族です。井伊家の姫君「駿河姫※するがひめ」が御祭神の妻となるなど、深い御縁をいただいています。当宮の御朱印帳や縁結び絵馬にも描かれているので、見たことあるなという方もおられるかもしれませんね。
明治5年(1872)2月12日井伊谷宮は御鎮座となったと伝わります。本年令和4年(2022)をもって御鎮座より150年を迎えました。
当初は新しい御宮ということで新宮(しんみや)と呼ばれ、駐車場入り口付近にあるぎょうざ屋「新宮」の名前の由来ともなっています。150年経った今となっては、もう「新宮」と呼ばれることも無くなりました。
社寺仏閣においては150年というのは歴史が浅いように感じる方がおられるかもしれませんが、こうした歴史的背景があり後の世で再評価され創建された神社であることを知っていただければ幸いです。
今では神社が新たにできることはあまりないですが、明治神宮然り、明治・大正の時代には機運の高まりによって大きな神社が創建されています。
宗良親王は皇族ですから、井伊谷宮は当時としても大変格式の高い神社として格別の崇敬がなされてきました。
当時の社格で、国から幣帛料が出る神社には官幣大社、官幣中社、官幣小社という枠組みがありました。
天皇陛下(後醍醐天皇を祀る吉野神宮)は官幣大社、その皇子は官幣中社ということで、井伊谷宮は官幣中社に列せられましたがこれは大変なことでした。
当初は県内でも三島大社に次ぐ県内二番目であり、後に富士浅間大社が官幣大社となってからも県内で三番目の格式の神社として厚い崇敬がなされてきた神社です。
昭和5年には昭和天皇が当宮を行幸され、昭和58年には平成の上皇上皇后両陛下が皇太子妃時代に御参拝をされています。
史料館にはかつての伊勢神宮の神宝も展示されています。20年ごとの式年遷宮で神宝の入れ替えを行う際に、前に使っていたものを下賜されました。
皇族を祀る神社として格別の崇敬を集めていた神社でありましたが、地域の方からは「尊すぎて近づいてはいけない神社」という印象があったようで、戦後神社が国と離れてからは護持していくことは大変であったと聞いております。

戦後の神社はどこのお宮さんもかなりの苦労をしていることと思いますが、当宮は特に大変な状況だったようです。先代の頃から組織を再編成し、地域の方々の御力をいただき、長い年月をかけて少しずつ少しずつ復興することができたのはひとえに皆様のおかげと感謝申し上げます。
地元を離れ昔の井伊谷宮しか知らない方が、久しぶりにお参りされて驚かれることもよくあります。
史料館が出来て、また少し雰囲気が変わったかもしれませんね。
これからの井伊谷宮についてですが、今は時代の変化がとても早い時代です。
変わらず守っていくものもありながら、社会の変化に応じて社寺仏閣も変わっていかなければいけない部分もあります。
その見極めを常に自問自答して、次代に神社を残していけるよう地域の皆様と共に懸命に励んでいく所存です。
かなり固いまじめなお話となってしまいましたが、御鎮座150年を契機にこうしたお話ができてうれしく思います。
まだまだ境内も修繕をしないといけない場所がたくさんあるものの、段々とよくなっていく井伊谷宮をこれからもどうぞよろしくお願い致します。